正義が認められない社会は生きづらい。生きづらい社会を生き切ったキリスト・イエス。
乾燥し、時に火によって焼かれるようなこの地にさえ咲く花がある。

Contents

正義を通そうとすると、
生きづらくなる。
けれど、それが人間的に生きるということ?
今日の私のつぶやきの始まり。

きっかけはこの記事。

2020年10月14日 18時00分付
朝日デジタル新聞 会員記事
「相棒」20年 「正義を通す右京に共感します」
聞き手・林るみ、撮影・西畑志朗

この記事を読んで、
水谷豊の放った言葉に
うなずいた箇所が2箇所。

なぜ、うなずいたのかというと、
これらの言葉が、私に
聖書に書かれてある言葉=聖句を思い出させ、
更には
「キリスト・イエス」へと
私の思いを導いたから。

この記事は
水谷豊主演の「相棒」というテレビドラマが、
20年続いていることについて
水谷豊が、インタビューを受けた記事。

過去を振り返らない=比べないということ。
それは現在から未来へ希望を抱くこと

記事中の一つの質問で、
「相棒」のドラマが始まり20年たった今の心境が
水谷豊に尋ねられた。

彼の答えの一部の要約が以下。

20年間というこの時間はあっという間。
長くやったという実感がない。
今まで340本ぐらい撮影したというけれど、
日々、あまり感じてはこなかった。
「相棒」の過去を振り返ったことがない。

過去を振り返らない?と記者に聞かれた彼が放った言葉は

ええ、振り返らないタイプ。
毎年、新シーズンに入るときに、前と比べたことがない。
いつも、これから先に何が待っているのか、と楽しみで
先に向かっていこうと思う。

といった。

ここで、私が思い出したのが
新約聖書ピリピへの手紙3章13節。
ちょうど、昨日読んだ箇所だった。

新約聖書ピリピへの手紙3章13節
兄弟たちよ。
私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、
ひたむきに前のものに向かって進み

この聖句は、
異邦人伝道つまりユダヤ人以外の人への伝導を主に行った、
パウロというイエス・キリストの使徒が、
ピリピという異邦人の地にある教会に宛てて書いた
手紙の中にある。

その中で、
この3章の前の1、2章でパウロは、
イエス・キリストがどのような方であるか、
イエス・キリストを救世主として信じて
生きるその人生を、
どのように生きるべきかを教えている。

そして、教えるという立場にあるパウロ自身が
どのような思いで生きている人物かを
自ら話す文脈でこの言葉が出てくる。

パウロは、これまでの人生つまり、
イエス・キリストが救世主であるという「真実」を伝える人生で
様々な迫害、困難を受けてきた。
そのパウロが、
「すなわち、うしろのものを忘れ、
ひたむきに前のものに向かって進み
、」

という。

「後ろのものを忘れ」とはつまり、
キリストによりすでに赦された過去の自分の罪、
(パウロが神キリスト・イエスの使徒となる前、
パウロはなんと、
キリスト信者を迫害する第一線で活動していた。)
更には、自分がしていること、つまり
神キリスト・イエスが人類の救世主であることを伝えること
の故に遭ってきた
数えきれない困難のことは忘れて、
ただ、ひたむきに前に向かって今のまま、
さらなる迫害の危険も顧みず進む、ということ。

水谷豊の言葉の、
「自分は振り返らないタイプだ」
「前(過去)と比べない。」
いつも、
「これから先に=未来に何が待っているのかに期待し、
先に向かっていこうと思う」
この部分が、この聖句を思い出させた。

人間的に生きるためには、
「生きづらさの中で生きる覚悟がいる」ということ

次に水谷豊が放った言葉の要約は以下のようだった。

刑事である右京の「正義」は必ずある。
それは彼にとってはゆずれない「正義」だが、
必ずしも今の社会に受けいれられるものとは限らない。
僕(水谷)は、これだけ長く杉下右京とつきあっている(演じている)ので、
よくわかる。
杉下右京はとても人間的であると思う。
人間的であろうとすればするほど、
実は社会では生きにくくなることが当然、起こってくる。
組織のなかで、「正義」を通しては生きづらい。
それでも、右京はまさにそれをずっと通して生きてきている。
生きづらくても、自分の正義を通して生きることで、
人間的であろうとし続ける。

ここで、私は彼、水谷豊の
「人間性」に関する一つの考え方を見た。
正義を通すこと、
たとえ、その「正義」が必ずしも、
今の社会に受け入れられるものとは限らないと
分かっていても、
「社会に受け入れられないこと」を
自分の「正義」を曲げる理由にしないこと。

「社会に受け入れられないこと」
=生きづらさは、
「正義」を貫いて生きることに必ず伴う事実
として認め、
生きづらさを抱えながら生きることを覚悟し、
「自分の信じた正義」を貫くことを決心し
生きること。
そのことを水谷豊は
人間的である、といっている。

人間的に生き切った神イエスキリスト

私は、ドラマの中の右京という人物について
彼が一刑事である、ということ以外全く知らない。
だから、
彼の「正義」というものがどういうものか?
どこから彼の「正義」が来て、
なぜそれを「正義」と信じれているのか、
詳しいことはわからない。

が、
更に続く彼の長くない言葉に、
神イエス・キリストの生き方が、
そしてイエスに続いた使徒たちの生き様が
重なった。

演じるときに、心がけているのは
人に好かれようとしないこと
右京は、人に好かれるために、何かをすることは
ないだろうから。

これを言い換えると、
人間的に生きようとしている右京は、
人に好かれるという目的のために、何かをする、
ということはない人間、と言える。

人に好かれることを目的にしないということは、
決して、
人に嫌われることをする、というような
次元の話ではないことは前提にある。

神イエス・キリストは、
人間の罪を許し、
神との平和な関係を
人間が取り戻すために人間の身代わりとなって(これを救いという)
十字架にかかられた。

神イエス・キリストについて
もう少し言うと、

神イエス・キリストという命は、
神イエス・キリストを信じる人が
罪赦され神との関係を
再び取り戻すという自分以外のところにある目的のために
捧げられる命として、生まれてきた。

神キリスト・イエスの人生は、
父なる神の御心に従って生き
父なる神のみ心に従った死に方を選んだ人生だった。
彼の人生は、
「神イエス・キリストを信じる人が
罪ゆるされ父なる神との関係を
再び回復する」という目的のために
この地上に存在した。

いま、このことを聞いても、
それを信じることをしない人が殆どのように、
神イエス・キリストが生きた時代も
同じだった。

病人を癒やし、目の見えない人を見えるようにし、
生まれながらに歩けなかった人を歩けるように癒やし、
更には死人の息をも吹き帰らせた。
これら、多くの目に見た奇跡=正義が
行われたにもかかわらず、
多くの人が彼を救世主とは信じなかった。
信じなかった人たちは、
そればかりではなく、
キリスト・イエスを十字架上で処刑した。

イエスは、常に
「正義を認めたくない人々の社会」の中で
「生きづらさ」とともに生き、
そして、
「正義を認めたくない人々」の中に在る
「救われるべき未来の命」のために
神の御旨に従って生き、
「正義を認めたくない人々」の中に在る
「救われるべき未来の命」のために
十字架の上での死を選んだ。

捨てきれない「正義」への期待

私達は、
自分たちが生活するこの人間社会では、
外面、見た目だけをよくみせるための
「カッコつけ」のため、
または、不義を隠すための盾として
「正義」が利用されることを知っている。

そんな経験から私達は
「正義」という行動に対して、
猜疑心を持たないで「受け入れる、称賛する」ことに
憶病になってしまった。

けれど、

「正義」を正義として素直に認められず、
受け入れられない集団が「今の社会」
ということができるかと思えば、
その一方で、
「相棒」のような
「正義が受け入れられにくい社会で、正義を通そうとする」ドラマが
20年以上にも渡り
日本の社会に支持されている。

このことは、
この社会を構成する私達一人ひとりもまた、
それぞれの正義を持って、
それぞれの生きづらさを抱えて生きる中で、
いつか「正義」が全くの正義として行われ、
認められる時が来ることへの期待を
捨てきれず、
正義を求めて生きているとも
言えるのだろう。

聖書の背後にある力

揺るぎない正義とはなにか?について、
今を生きつつ探し求めるなら、
その答えはいつも聖書の中にある、と
いまの私は信じる。

あなたの求める「本当の正義」が何か?
そして、
その正義を通して生きるとはどういうことか?

その答えもまた、聖書の中に答えがあると信じる。

神は初めに、天と地を作られた。
(旧約聖書 創世記 1章1節)
神が天地の=この世のすべての創造主である、と
旧約聖書の一番初め、創世記の第一章一節に書かれている。

生命の始まりは神にある。
私達一人ひとりの命の創造主は
神である。
聖書はそう明言する。

この神の言葉が、
被造物である人間に向けて放たれ、
霊感に導かれ、人間を通して書かれた書物、
それが聖書。

聖書は、2000年以上も前に書かれ、
2000年以上も後の今の世にまで引き継がれてきた
という事実を持つ書物である。

人間の歴史が常に、天変地異、破壊と構築の繰り返しであることを考えると
その間も消滅することなく守り続けられたことは
奇跡と言えるのではないか?

この事実を前に、
旧新約聖書は、
神の霊感によって書かれた、
神の言葉である、という事実を
否定するあなたは、
今日までの2000年以上を生き抜いてきた聖書の
背後に働く力を
どのような言葉をもって
否定できるのか?

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。

以下は、聖書、キリスト教についての核と知るための
おすすめ3選です。

キリスト教、クリスチャンって
実のところ何よ??
と少しでも思っている方は、
ぜひご視聴ください。

https://youtu.be/nGwlYsV6-tM
https://youtu.be/zg9Pb3RUApo
https://youtu.be/jn1adoP3VPk

またお会いできますように。

Cororin

おすすめの記事