Contents
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ のデイリーデボーション クレイ 2022年5月27日金 より以下抜粋、参照
2022年5月27日金 聖霊で満たしてください。 Fill me Lord.
出エジプト記 20章:14節 姦淫してはならない。
第7 戒
第7 戒(14 節)
「姦淫してはならない」。第7 戒は、結婚関係の尊厳を教えたものである。(1)聖書は、結婚関係という枠内における男女の肉体的交わりを祝福している。旧約聖書の雅歌は、夫婦関係の喜びを歌ったものである。(2)結婚関係の外で起きる男女関係は、すべて第7 戒違反である。(3)結婚している人が犯す罪は、相手に対する裏切りとなる。(4)新約聖書でも、この罪は厳しく戒められている。ヘブル13:4 には、こうある。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです」
私たちへの適用
第7 戒は、結婚関係の尊厳を教えると同時に、家庭という存在の神聖さを教えたものでもある。家庭は、健全な社会を構築するための基本的な要素である。姦淫によって家庭が崩壊すれば、結果的に社会もまた崩壊に向かう。さらに、他人の結婚関係を侵害すれば、それは他者の体に対する侵害となる(夫婦は一つであるから)。
人間は、自分に都合の良いように性道徳を変えられると思っている。しかし、「姦淫してはならない」という神の命令は、キリストの律法においても生きている。クリスチャンは、この世の道徳規準から影響を受けてはならない。神は侮られるようなお方ではない。神を恐れる人は、知恵ある人である。
「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません」(エペ5:3 〜 5)
性的罪のゆえに苦しんでいる人は、今その罪をキリストの御名によって神に告白しよう。神はただちにその罪を赦し、告白した人を聖くしてくださる。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。家庭という存在の神聖さを学ぶことができました。姦淫は、その神聖な存在を破壊する愚かな行為です。聖書的結婚関係の意味をもう一度考えることができたことを感謝します。主の御名によって祈ります。アーメン。
私達が抱える社会問題とは、私とあなたの問題です
今朝のクレイは、あなたに何を語りかけましたか? ジェンダーについての考え方の変化、不倫や性的暴力の氾濫、育児放棄やネグレクト、家庭内暴力。 皆さんはこれら私達が生きる社会が抱える、つまり一人の社会の構成員としての私が、あなたが、抱えるこれらの問題について何を思いますか?
聖書の神イエス・キリストを受け入れた者とは
少し私自身のことを書きます。
私は生まれてから約30年は聖書を知りませんでした。そして、どんな神も仏も先祖の守護神も知りませんでした。でも、生きてこれました。
けれど聖書を知るまでの私の人生は、今思えば、根のない水面に漂う浮草のようでした。 生きてはいたけれど、いつもどこかで「本当にこれでいいんだろうか?」というような不安にいつもつきまとわれていました。特に、人間の性ということに関しては、結婚するまでは性交渉はすべきではないという、誰からも教えられたわけではないけれど「漠然」とした思いがあったにもかかわらず、自らの性への好奇心と見聞きする情報との間で私自身は「何が本当に正しいのか」がわからずに生きていたことを否めません。
家庭環境に至っては、両親の言い争いや父の母への暴力を間近で見てきたこともあって、自分が結婚しても、夫との中が悪くなったらサッサと別れよう、とも思っていました。喧嘩しながら続ける結婚生活にはなんの価値も感じませんでしたから。
そんな浮草のような時間を30年以上生きてきた私は、結婚しもうすぐ25年になろうとしています。そして、夫と息子三人の家庭の中で生きることを許されています。
私にとってこのことは、奇蹟なのです。
夫との結婚生活に入ってからは更に、私の心は独身のときとは違う意味で大きく揺れまくり、何度も夫から離れようと考えました。にもかかわらず、今、私は「私の家族」と共に生きているのです。
何がそうさせたか?
それは、私が神の言葉を信じるに至らせていただいたという一言に尽きると思っています。
聖書の神イエス・キリストを受け入れた者とは、つまり私にとって、聖書に書かれているイエス・キリストによる新しい完全なる生きる指針を受け入れるということとも言えると思います。
性倫理の乱れから発生した私達人間の社会問題
旧約聖書 出エジプト記20章:14 節は、姦淫してはならない。 と一文だけ書かれています。
中川牧師の解説と適用を読んでいただければ、この一行に含まれている意味の深さは理解していただけるでしょう。
私は先に、「ジェンダーについての考え方の変化、不倫や性的暴力の増加、育児放棄やネグレクト、家庭内暴力と家庭崩壊という問題についてあなたは何を考えますか?」と書きましたが、如何ですか? わたしは、これらの問題の背景には人間の性倫理の崩壊があるように思えているのです。 個人の性倫理の崩壊は夫婦関係の崩壊をきたし更には家庭崩壊にも繋がります。またそれは夫婦以外の人も巻き込んで社会的問題にも波及します。
夫婦、家族関係が崩壊している家庭で育った子どもたちに限らず現代社会においては、どんな家庭においても、性倫理について親から明らかな言葉にして教えられることは多分殆ど無いのではないか、というのが私の考えです。自分の経験を合わせてこう考えます。
明らかな言葉にして子供に伝えることできない親が存在し、そして性倫理について親に聞くことのできない子供は、何が正しいか、何が正しくないかという基準、価値観が七変化する社会の中に氾濫する性情報の中で、迷子になっている。
聖書が中川牧師の解き明かす意味を持って「姦淫してはならない」とはっきり言うように、子供に向かってこのようにはっきりと性倫理について言い切ることができる親が、果たしてどれだけいるのでしょうか? 親としては、子供に明らかな言葉を用いて何かを言うからには自らもそれを実行する存在でなければならないと自覚することは自然でしょう。けれど、親である自分という人間を顧みるとき、「言うに値しない」自分に気づくことがほとんどではないでしょうか? 特に、 親が子供に「結婚まで処女または童貞の純潔を守るように」と言おうと考える時、親は自分の言おうとしていることについて自分の過去を振り返るでしょう。自分はどうだったか?と。 そして、もし子供から「そんな事を言う自分自身、親自身はどうだった?」と問いかけられた時、果たして親自身が子供の問いかけに耐えうるだけの答えを持っているのか? それはつまり、建前だけを子供に言っても、子供には受け入れられない。だから言えない。 そういう親が普通だと思うのです。 だから、親からは性倫理について話しづらい。 話せない。そして次世代の子供もまた性倫理の中で迷子になる。 こういう状況が続いているのが人間社会なのではないか、と私自身を振り返って思うのです。
神の言葉の権威を受け入れて、悪循環を断つ
人間の欲に従って移ろいゆく社会倫理のもとで生きいる私達人間の歴史を顧みるとき、私達人間の倫理観はどのように変化してきたのでしょうか?
少しでもいい方に変わってきているのでしょうか? 聖書の言葉は、私達人間のために書かれた神の言葉だけれど、時々刻々と変化する人間社会の流れには沿っていない。 それは、神は普遍、不変の存在であり、神は人間の創造主であるがゆえに自らの被造物である人間にとって何が良くて何が良くないことかを、創造の時点から完全にご存知であるからなのではないでしょうか。
では、人間が生まれた時から続いているこの悪循環を断ち切るためにはどうすればいいのか? それは私達が、聖書が神のみ言葉であることを受け入れ、私達が不完全なる人間の親としての権威ではなく、完全なる神の権威によって子どもたちを含む人々に、聖書のみ言葉を持って働きかける他ないのではないでしょうか? そもそも不完全な一人ひとりの私達人間は、自分を模範例として他人に完全、善であることを求める権威なんてないのです。私達人間は常に反面教師として生きるしかない。 それでもその未熟さの中で自分の十字架を背負い生きつつ、神という完全なる存在と権威を認め、聖書に頼って次世代の子供達や同世代を共に生きる人々に働きかける努力をする事によってしか、人間が陥っている悪循環を断ち切る方法はないと思うのです。
これが、今日のクレイから私が考えさせられたことです。 読んでいただいてありがとうございました。 またお会いできることを願っています。 良い日をお過ごしください。 cororin