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今日は、アナタの生命が母の胎内に宿った後、命の出生に至るまで、そして、その生命が今を生きているということについて考える。
記事の一番最後には、おすすめの動画を載せた。
前回その1では「命が宿る」ということが、如何に奇蹟的なことであるかについて考えた。そして、命がこの世に生まれるということを、それぞれが偶然と捉えるか奇蹟と捉えるかについて問いかけた。 私達の一つ一つの命が宿る確率は60兆分の1以下の確率なのだ。
1400兆分の1の確率で生まれたあなた
あなたの命は、「アナタ」になれるたった一つの卵子=アナタの半分と、「アナタ」になれるたった一つの精子=アナタのもう一つの半分が出会い、受精して、母の胎内に宿った。
この時点で、アナタの命は60兆分の59兆9999億9999万9999以上の生まれない可能性=消滅=死の危険をかいくぐってきた。
受精したときに2つの細胞は融合して一つの細胞になるという。その後、あなたという一番はじめのたった一つの細胞は、細胞分裂を繰り返し、繰り返し、繰り返し続けて赤ちゃんとして生まれるときには37兆個ほどもの細胞になるのだと。
受精卵となった時から命の誕生までの約9ヶ月間を、なんの危険も無く経過できるはずはない。
細胞分裂の過程で正常な分裂に支障が生じることもあるし、切迫流産や切迫早産による命の消滅=死の危険もある。
母体が妊娠中毒症等になれば、母体にもお腹の赤ちゃんにも命の危険が及ぶこともあるし、状況によっては母体の命を救うために人工中絶という手段を取らざるを得ないことも有り得る。
アナタの母が、事故や病気になってアナタの命を失う=死の危険だってあったし、事故によって母子共に命を失う危険だってあった。
無事にこの世に生まれてきたアナタは、こういう命に及ぶ危険から守られてきた 一つの証=あかし。
teniteo さんのブログでは、1人の赤ちゃんが産まれる確率はなんと「1400兆分の1」といわれている。
この、あなたの命が生まれる確率が1400兆分の1とは、命宿るための確率60兆分の1以上の確に、妊娠中の多くのリスクの考えられるものほとんどと、妊娠以前のアナタの父と母の出会いまでの確率等をも掛けて導き出された確率と思われる。
赤ちゃんのアナタが生まれる確率が1400兆分の1って、数字的に私達の頭で考えるとそれは「無」に等しいほど。 そして、 この無に等しいことが起こったのがあなたの命そして一つ一つの命。
あなたの命が、この世に生まれてこれた確率は1400兆分の1。 これを言い換えると、たとえアナタの命が母の胎内に宿ったとしても、死に至る確率が1340兆分の1339兆9999億9999万9999以上ということ。これって、生まれないことが当たり前、といえるような確率。
この死の確率を乗り越えることを支えたのは誰?
それは、あなた自身ではなかったことは確か。
だって、母の胎内で自然に身を任せて育つことしかできなかったあなた自身には、自分の意思はまだなかったし、自分の命を守る、ということについては全くの無力だったのだから。
では、誰が?
あなたの命を守った存在は誰?
アナタの命が誕生に至るまでには、アナタの命を身ごもっていたアナタの母と、母以外にあなたを守ろうとしていた人達、そして、あなたの命を創造した存在があったはず。
あなたの命は、守ってくれる存在があったからこそ、今がある。
あなたは今、あなたの意思を持って、あなたの命を生きている。
けれど、
生まれたばかりの赤ちゃんだった時は、自分の意志と呼べるものはなく、本能によって生き、他の存在の助けに頼り生かされる存在だった。あなたの命は100%あなた以外のものに委ねられていた。
そんな弱々しいだけの存在であったにもかかわらず、あなたの命は守られてきた。
お腹が空いて泣けば夜中でもミルクをもらい、うんちが出て気持ち悪ければ泣いてきれいにしてもらった。暑くて不快なら泣き、寒くて不快なら泣き、眠いのに一人で眠れなければぐずった。
泣くこと、ぐずることでしか意思表示ができないときを守られて無事に過ぎ、イヤイヤの意思表示ができるようになった。自分の安全域=家族がわかるようになると、人見知りで不安を表現することができるようになった。
言葉が話せなくても、あなたが泣けばあなたを取り巻いていた人たち、あなたの要求を理解しようとあれこれ考え、心を尽くし、あれかこれかと必死になってアナタの笑顔を取り戻すために試行錯誤した。
アナタがまだ、ありがとうの意思表示さえできないときでも、アナタを取り巻く人達はアナタのためにその心を尽くし、精一杯の行動をした。
時には病気をしたあなたを夜通し看病し、時には危険もわからないよちよち歩きのあなたを車の危険、水の危険、火の危険から守ってくれた。
どれもこれも、あなたの命を愛おしいと思うが故のこと。
アナタの周りにいた人たちは、1400兆分の1の確率で授かったアナタという奇蹟を、死の危険から必死で守ってきた。
生かされてきた命を生きる辛さに出会う
アナタは周囲の人に守られながら、言葉を覚え、歩くことを覚え、走れるようになり、学校に行くようになり、友だちと遊ぶようになった。
そして自分で自分を車の危険、水の危険、火の危険ときには人による危険から守る術を学んでいった。
それが次第に、自分の周囲の大人の考えに同調できないときが増え、自分の中に生まれる欲求にどう対応したらいいかわからなくなり、「誰も、自分のことをわかってはくれない!」と孤独を感じるようにもなった。
この地球上で、たくさんの人に囲まれていてさえも感じる孤独の厳しさに震えることもあった。
「なんで私なんか生んだの」
「生んでなんか頼んだ覚えはない」
「なんでこのわからず屋が、私の親なの」
「他の親のもとに生まれたかった」
「自分なんかいないほうがいい」
「誰も、自分のことをわかってくれない」
「自分なんか、死んだほうがいい」
「生きていることが辛くて仕方がない」
孤独の中に吸い込まれる時には、そんな事さえも思ってしまう。
そして、自分の命だから、この命を生きているのは自分だからって思うと、自分でこの命を終わりにできる、なんていう考えにまで及ぶことだってなくはない。
自分の意志でもなく、親の意思でもない中で生まれてきたワタシタチの命ナノニ。
自分の意志で生まれてきたのではないのに私達は、この何者かによって与えられ、多くの人によって守られてきた自分の命を、辛い思いをしてまで生きなければならない?
奇蹟の一つとして授けられたこの命を生きることの辛さに出会うことが多い人生。
この命を生きているのは自分自身に他ならないのに、この命が与えられた命であるという事実は、自分の命は自分だけのものではないかも知れないということ?
楽しいこともあるけれど、辛いことはそれ以上に多く感じる人生を生きる価値は どこにあるの?
辛さを感じて生きることの価値は何?
自分がシアワセに感じない命を生きる価値って?
シアワセって 何?
幸せを追い求める私達人間
今、オンライン上には、アナタをシアワセニシタイ人たちが沢山いる。
「幸せになるために、貴方は生まれてきたんだよ。」
「あなたはまだ、本当の自分の能力に気づいていないだけ」
「あなたには幸せになる本能が生まれつきある」のような情報発信が氾濫している。
このことの裏を返せば、 「ほら、アナタここが不足していない?」 「ほらアナタ、そんなんじゃシアワセっていえないよ。」 「ほらあなた、他の人はこんなにシアワセなんだよ」 「シアワセじゃなければ生きる価値ないよ」 って、 畳み掛けているようにも思えてくる。
そして次には、 *こうすれば、生きるのが楽になる! *こうすれば、お金持ちになれる。 *こうすれば、人に好かれる。 *こうすれば、悩みが消える。 *こうすれば、願いが叶う *こうすれば、トントン拍子の人生に、 *こうすれば、楽しい人生に *こうすれば、幸福感に包まれた豊かな人生に *こうすれば、心がピカピカに *こうすれば、心が愛で満たされる *こうすれば、人生の幸運軌道に乗tte すべてうまく行く人生になる *こうすれば、、、、、、、になる *こうすれば、、、、、、、、になる *こうすれば、、、、、、、、になる *こうすれば、今のシアワセでないあなたはシ・ア・ワ・セになれる。 その方法を私が教えてあげるよ。 で、そのために私に払うお金、ある? みたいなオンラインの世界。
シアワセって、お金で買えないものではなかったっけ?
必ず死を迎える命を「生きる目的」って?
この世に生まれさせられたこの命を生きることの目的は、「自分のシアワセを求めること」「シアワセになること」なんだろうか?
自分の意志以外の力によって生まれさせられ、守られ今まで紡がれてきた命でも、必ず、死によって終わりが来る。
その命の終わりに、「ワタシは人並みにシアワセだった」と言うために私達は今、生きづらい命を生きているのだろうか?
いつ自分の死の瞬間が来るのかもわからないこの人生を生きる目的は、
「人並みのシアワセを掴んで死ぬこと」なのだろうか?
シアワセでないと 他人から思われる状況の中に生きることは悪いこと、ですか?
他人が持っているものを持っていないこと、
他人ができることをできないこと、
他人が行けるところにいけないこと、
他人が食べてるものを食べれないこと、
他人が着ているものを着れないこと、
他人が、、、
他人が、、、
一人ひとりが唯一無二の奇蹟の命として生まれ生きていることを考えれば、ひとりとして他人と全く同じであれるはずがないのに。
そもそもシアワセって何ですか?
終わりに
今回は、奇蹟的確率で起こる命の出生と、その後生きることの生きづらさについて考えてみた。
私達の命が無事にこの世に生まれる確率は1400兆分の1、つまり
1400兆分の13兆9999億9999万9999 の死の確率をかいくぐって今に至るということ。
私達が生きるそれぞれの命は、私達自身の意志でも、親の意思でもない原因によって誕生した。
命が宿ることも、その生命が生まれることも、そして 生まれた命が今日まで生きていることも全てが奇蹟的な出来事であること。
けれど、
命を生きるって辛いことが多いですよね。
この、辛い命を生きることの目的とは一体なんだと考えますか?
私達の生きる目的は、
本当に「人生を人並みにシアワセに生き通して死を迎えること」なのでしょうか?
そもそも、シアワセって、何なんでしょうか?
これからこの疑問について、聖書を横に置きながら、私なりに考えてみたいと思います。
おすすめの動画を一つ紹介させてください。
命の授業(腰塚勇人)
命の授業(腰塚勇人)
こちらもお時間がありましたらどうぞ。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
ぜひまたお会いできますようにと願っています。
コロリン