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聖書の教えの中心は「道徳」ではない
アナタは、宗教とは何と思うのだろう? それは「それぞれの教えに従った独自の道徳を教えるもの」と考えてはいないだろうか? つまり、宗教は道徳を教えるもの、みたいな。 プロテスタントのキリスト教において、この概念は YES であり NO でもある。 その理由は、何を最優先に学び知る必要があるかという学ぶ優先順位があるということに、私自身が最近になって気づいたから。
結論を言うと、キリスト教もしくは聖書について学ぶ時に、最優先して学ぶべきことは聖書の神イエス・キリストについてであって、キリスト教の道徳ではないということ。
私は、クリスチャン歴25年。汗) 神を信じたいとも、信じる必要を感じたこともない私が、今こうして聖書の神イエス・キリストを信じるようになったことは正に「不思議」。
クリスチャンになって既に25年も経っているけれど、実はここ最近になってようやく 「私、ようやくクリスチャンぽくなってきたかも?」と感じるようになってきた。 その訳は、 ようやく良いことができるようになってきたとか、いい人っぽくなってきたと言うことでは 無い、 全く無い、完全に違う 。
自分で、クリスチャンっぽくなってきたカモと感じる一番の理由は、聖書を通して、聖書の神イエス・キリストについて正しく知り続けているという今の自分の状態がとても心地よく、神イエス・キリストについて、毎日曜日の教会で学べるということが本当に喜びであり有り難いと感じているから。
今日こうして「聖書の教えの中心は道徳ではない」ということについて書こうとしているのは、恥ずかしながらクリスチャンとして20年以上も生きてきて、実は私自身が「良いクリスチャンとは、良い行いを沢山できる良い人間になること」と勘違いしていたことに気がついたから。
勘違いなんて言うと、多くのクリスチャンは「???」と思うかもしれない。
言い換えてみると、私が毎日曜日に教会に行くのは、 「神イエス・キリストが行った奇蹟などの不思議な話やいい話、自分のためになる話など道徳的な話を聞くことで、荒波の海を航海しているような人生を生き抜くための励ましと力を受けるため」が第一義的目的では--ない、ということに気づいたということ。
聖書を通して神イエス・キリストについて学ぶことが、キリスト信仰の要
ここで勘違いしてはいけないのは、キリスト教の道徳観つまりは神イエス・キリストの教えについて学ぶ必要がないと言っているのではーない。
聖書を学ぶということは、イエス・キリストの教えについて学ぶことでもある、 モチロン。
なぜなら、キリスト信者の目標は、神イエス・キリストがこの地上で生きられた様に生きることだから。
しかし神イエス・キリストについて十分に知ること無しに、「イエス・キリストに倣って行動する=Doing 」「神イエス・キリストのように慈悲深い人となる=Being」の方の学びに偏ることは 危険。
何故なら、昔の私が考えていたように、 「自分はクリスチャンだから、良い行いを沢山できる、良い人間になる」と考えていると、 いいことしなくちゃとか、 人に寛大にならなくちゃとか、 いい妻に、母にならなくちゃとか 「クリスチャンな、ん、だ、か、ら、、、しなくちゃ」 「あの(クリスチャン)人は他人のために、自分の時間をたくさん捧げて神に奉仕しているのに、 自分は、、、できていない」みたいな思考回路になって 他のクリスチャンと比較して、 クリスチャンという自分でいることが苦しくなっていったりする。 これが、危険なのだ。
だから、
聖書から初めに、そして継続して学ぶべきキリスト教の要は、 神イエス・キリストについて知ること。
訳名:「新共同訳」 聖書種類:「新約聖書」 書名:「ヨハネによる福音書」 5章 39節
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、 聖書を研究している。 ところが、 聖書はわたしについて証しをするものだ。
聖書の神イエス・キリストについて学ぶことが、キリスト信仰を深める要になる。
そして、
神イエス・キリストへの理解が深まると信仰が深まり、
信仰に基づいた「道徳的行動」が自然と滲み出てくる。
そう、
この滲み出るの言葉の通り、
キリストの道徳的教えの力は、
自分の内にだけ秘めていられるものではない。
神イエス・キリストについての知識が深まれば深まるほどに、
そのイエス・キリストの十字架の意味の理解も深まっていく。
この過程を経て、
イエス・キリストの十字架が如何に尊いことかが分かると、
生かされているこの命を、イエスの教える通りに用いたくなる。
この過程が信仰の成長であり、
この深まった信仰の産物としてイエス・キリストの教えが、
クリスチャンの言葉や行動、態度に自然に滲み出てくるようなる。
聖書の言葉では、キリスト信仰が言動や態度に現れることを 「実を結ぶ」とか「果実」という表現がされる。
訳名:「新共同訳」 聖書種類:「新約聖書」 書名:「ガラテヤの信徒への手紙」
ガラテヤの信徒への手紙/ 05章 22節 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、 喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 ガラテヤの信徒への手紙/ 05章 23節 柔和、節制です。 これらを禁じる掟はありません。 ガラテヤの信徒への手紙/ 05章 24節 キリスト・イエスのものとなった人たちは、 肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 ガラテヤの信徒への手紙/ 05章 25節 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら 霊の導きに従ってまた前進しましょう。
「霊の結ぶ実は」育って実るという信仰の概念が表れている。
神イエス・キリストの「権威」を知る
聖書には、沢山たくさんの道徳的 キリストの教えがある。にもかかわらず、聖書から初めにそして継続して学ぶべきキリスト教の要は、神イエス・キリストについて知ることと言う理由は、 人を救いに導くすべての権威が、神イエス・キリストだけにあるから。
訳名:「新共同訳」
聖書種類:「新約聖書」
書名:「ヨハネによる福音書」
14章 06節
イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、
だれも父のもとに行くことができない。
(父のもととは、天国におられる父なる神のことだから、これは救われて後、天国へ移されることを意味する)
聖句の検索をしていたら、この聖句についての解説があったので以下にリンクしておく。 ハーベスト・タイム・ミニストリーズ 聖書入門.com
訳名:「新共同訳」 聖書種類:「新約聖書」 書名:「ヨハネによる福音書」
03章 16節
神は、
その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
聖書には、神イエス・キリストを信じる者ダケ ONLY が救われることが明記されている。 永遠の命とは救われた後に与えられる老病死苦のない永遠に続く命のこと。
私達は、自分が生きているこの日本国の憲法や法律、交通規則などは「守るべきもの」として認識しているはず。それは、この民主主義の社会において、これらの規則は私達の民意を反映して、自分と他人が安全により快適に生き暮らすために、選挙で選ばれた私達の代表が作ったものとして、規則の背後にある権威を認めているからに違いない。 このように考えると、 一人のクリスチャンとして、既に自分たちの生活に適応されている法律や規則等の規律に加えて「神の言葉である聖書に書かれているクリスチャンとして守るべきキリストの教え」「法律などよりも更に厳しい規律=イエス・キリストの教え」に従おうとする時、
私達は、何の、誰の権威による規律であるのかを知らなければ、 心からその規律を受けいれ、自己中心的な自分の我欲を抑えて従うことは難しい。
信仰に至らせる神イエス・キリストについての知識
聖書を学ぶときには「神による救いに完全なる権威を持つ 神イエス・キリスト」について学び知識を持とう。
クリスチャンになるとかならないとか、 キリスト教を信じるとか信じないとか言ってみても、 クリスチャンになるとは 神イエス・キリストが私達の救世主であるということを 信じるということ。 でも、チョット待って。
信じるも信じないも、神イエス・キリストについて知らなければ、信じるもなにも話にならない。
だから、信じる信じないの前にその対象について知る必要がある。 神イエス・キリストについて聖書を通していろいろな角度から学んで、 自分の中に生まれるあれこれの疑問に対する答えを探してみて、 その答えを自分の頭の中でぐるりぐるりと巡らせ考え検証して、 それが真実かどうかを見極める。 すべてのことを検証できるわけでもないし、 すべてのことの真実性を明らかにすることができるわけでもない。 けれど私達人間には、そんな時に働く「勘」というものもある。 嘘っぽいとか、胡散臭いとか、余りに綺麗事過ぎるとか、いいことばっかり過ぎるとか、そういう自分の勘も総動員しながら、まずは学んで知ることが第一段階。
キリスト教について言えば、 神イエス・キリストがどういう存在なのかについて学ぶこと。 あなたが、 クリスチャンになれるかどうかも、 イエス・キリストを神の独り子であると信じることができるかどうかも、 イエス・キリストが神であることを信じれるかどうかも、 神イエス・キリストが死から蘇られたことを信じれるかどうかも、 神イエス・キリストは、 十字架に貼り付けにされたのではなく、自らその父なる神の御旨に従ったことも、 死人を生き返らされた奇蹟も、 生まれつきの全盲を癒やされたことや、 生まれつき歩けない人を即座に癒やしたことも、 そして、 神イエス・キリストを信じることで、本当に自分は救われ、永遠の命を授かることを信じれるかどうかも、 全ては、神イエス・キリストがどのような存在の方かについて、 聖書を通して、神イエス・キリストについて正しく学んで、知識を得ることから 始まる。 キリスト信仰はそれからしか(ONLY )、始まらない。 現代の人間には不可能と思われることを「された (Has Done)」神イエス・キリストについて書いてある聖書の学びを始めないことには、キリスト教を信じるも信じないも何も始まらない。 私達は、自分自身が「知らないこと」「真実と信じることができないこと」を、 本当の意味で信じることなどできない。 いい感じ、聞こえがいい、美しい響き、心地よいという 自分の移り変わる感覚や感情によってではなく、 真実を知識として蓄えること。 真実であるかどうかは、自分の理性を駆使して学び、自分の感性をも駆り立てる 必要がある。 信じれるかどうかは、学んだ後の結果としてついてくるもの。
そして、聖書という書物は、あなたが真実を求める上で行うであろう歴史的事実としての検証に既に数千年以上も耐え抜いて「神の言葉」と唯一認められた書物なのだ。
ヨハネによる福音書/ 06章 37節 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。 わたしのもとに来る人を、 わたしは決して追い出さない。 ヨハネによる福音書/ 06章 38節 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、 わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 ヨハネによる福音書/ 06章 39節 わたしをお遣わしになった方の御心とは、 わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、 終わりの日に復活させることである。 ヨハネによる福音書/ 06章 40節 わたしの父の御心は、 子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、 わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
アナタにピッタリ!? 求道中 という言葉
神はいると思いますか? と聞かれて「神はいるとは思うけれど」と答える人はいるだろう。 この「けれど」のあとに続く言葉はなんだろう?
それは、神はいるとは思うけれど、良くわからない、説明はできない。そんな言葉が続くかもしれない。
神=人間以上の力を持つ存在。
私達日本人の多くは、人間以上の力を持つ存在を否定はしないけれど、その存在を説明することはできない。日本人にとってこの事は普通なことだと、私自身を振り返ってそう思う。
日本人の多くは、神を説明できない。 説明できないけれど、存在すると信じているあるいは思っいる。 でも、 説明できないけれど存在はすると信じているその神の、 何を信じれるというのだろう? 自分がよく知らないものを、人間はほんとうの意味では、信じることはできない。 だから、キリスト教には求道中という言葉がある。 それはまさに「道を求める」ということで 「神の道を求める」といえるだろう。 求道中の人は、聖書を通して神と神イエス・キリストについて学んでいる人であって 未だクリスチャンと呼ばれる人ではない。 割とすぐに神の道を見いだす人もいるだろうし、 真実を見極めるまでに何年もかかる人もいるだろう。 それでいい。 時間がかかろうがかかるまいが、そこには確実に神の導きが働いているのだから 聖書の学びに費やした時間に「無駄」はない。 だから、もしあなたが神の道を探しているのなら、或いは、神について何かしら知りたいという興味があるのなら、そのままのあなたの状態で、聖書の勉強を始めればいいということ。 プロテスタントのキリスト教会は、信者でなくとも誰でも礼拝に参加していいところだし、あなたがクリスチャンでなければ、より歓迎されるかもしれない。 聖書を通して神の道を求めてみたいと考えているのなら、 近くの教会へ行くことも一つの方法。 でも、 知り合いがいるわけでもない教会へ一人で行くまでの勇気が 持てないと感じるのなら、 一人で、 誰にも知られず、 こっそりと、 しかも正しく聖書を学べる、 すっごくいい方法がある。 そ、れ、が、私の一押し
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ!
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
ハーベスト・タイム・ミニストリーズはかれこれ20年以上、日本を中心に宣教活動をしている団体。中川健一牧師が創設し2010年までの日本で10年間テレビ伝道を続けた後、オンライン伝道に移行し世界中にいる日本語を理解するクリスチャンや求道者のために神に仕えている。
求道者にとっても、また年期の入ったクリスチャンにとっても多様で有益かつ正しい聖書理解を促す宣教を行っている。
ここで、力を込めて言いたいのが「正しい」という点。
重要!正しい聖書理解とSNS 上にあるキリスト教関係の情報に潜む危険
ここで、力を込めて言いたいのが「正しい」という点。 情報により簡単にアクセスできるYouTube 上に、キリスト関係のものはワンサカある。 が、それらの中には聖書を真の意味で知らない人たちからの発信も多い。 こんな事を言うと、では私自身は100%正しい聖書理解ができているのか?と思われるかもしれないが、もちろんそうではない。 では、何が正しくて何が正しくない聖書理解か、どうして分かるのかと言うと、ハーベストタイムミニストリーズのメッセージをこれまで何年か聞いてきた中で、人間の利益に偏って解釈されているような「人間臭さ」みたいなものを嗅ぎ分けられる感覚が私の中に育っていると信じている。
聖書学者が言うような、聖書の言葉の一つ一つの解釈の意味の詳細はわからなくても、人間臭い聖書解釈に対して「胡散臭さ」を感じるようになった。だから、人間の私欲に伴った「人間臭い」聖書解釈に出会うと(それに似たようであっても、時には正しい解釈についても)胡散臭いかな?ちょっと要注意かも?と感じる。例え、この世で人気のある牧師や聖書研究者が言ったことであっても、すぐには鵜呑みにせず、一旦横に「検討事項」として置いておくというような事ができるようになってきた。
さて、YouTuber などによるキリスト教関係の発信の話に戻る。
多くのキリスト教関係の発信は、過度な表現方法ー誇張ー強調ー装飾ー絵ー否定的視点が用いられ、人々の好奇心を刺激することに重きが置かれた内容が目につく。 そして多くの発信者にはその情報の正確さを保証する「正しい聖書理解」という背景が欠如している為に、発信者本人の利益のためのPV稼ぎの情報の域を超えるものではない。 それらの情報発信では、キリスト教の如何を正しく知ることはできず、結局は神イエス・キリストについての偏見を植え付けられ、神により導かれたあなたの「神について知りたい」という思いは(悪魔の力によって)汚染され、救いのチャンスを逃す結果になる。 (面白いことに、新約聖書の殆どのセクションに、偽教師、偽兄弟、偽キリスト、偽使徒、偽預言者の出現とその教えへの注意喚起がされている。これらは、「羊の皮を被った悪魔」の働きによる。) 全地の創造者である神が、聖書の中にそしてこの地球を含む宇宙を通して表される御自身のことを、10分や20分の動画などで知れるはずがない。もちろん、短い動画の中にも、正しい情報だけを含めることはできるし、そういう動画も確かにある。 しかし聖書の学びをしたこともない人により発信された情報だけから、神イエス・キリストまたは神の言葉である聖書について知った気になることには、救いを逃す危険があるということを、 強くあなたに知っておいていただきたい。
聖書の学びは急ぐ必要はない。
聖書の学びは急ぐ必要はない。
なぜなら、聖書の学びとは全地の創造者であり、全知全能の神について学ぶことだから。 聖書に、神ご自身の息吹によって表されている神の一部分についてさえ、私達の一生を通しても知り尽くす事はできない。 けれど、聖書を正しく学ぶことが私達を「神への十分な信仰へと導くに足る」ものであることは、以下の聖句によって保証されていると言える。 神は、あなたが真に神を求めるならば必ずその真のみ姿を、聖書を通してまた神の被造物である宇宙と自然法則を用いてあなたに表してくださる。
訳名:「新共同訳」 聖書種類:「新約聖書」 書名:「マタイによる福音書」
マタイによる福音書/ 07章 07節 「求めなさい。 そうすれば、与えられる。 探しなさい。 そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。 そうすれば、開かれる。 マタイによる福音書/ 07章 08節 だれでも、求める者は受け、 探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
終わりに(ようやっと!!笑)
ここまでお付き合いいただいた方がモシいましたら、本当にお疲れさまでした。そして本当にありがとうございました。 25年もクリスチャンをしてきた私は、20年以上も実は本当のクリスチャンではなかったということに気づき、その気づきを通して今の自分が信じてる「聖書から何を学ぶべきか!?」について書きました。 聖書を学ぶとは神イエス・キリストについて学ぶことです。 イエスのしたこと、イエスが直接言ったこと、そして、イエスの周辺の使徒たちやユダヤ人たちの言動のなかに、イエス・キリストの影響を見ることができ、それらが更にイエスについて知る情報となります。 信仰のない、形骸化した言動を真似ることにとらわれることなく、じっくりとイエスを知ることを通して自分の信仰を深めてもらい、知らず識らずのうちにイエスの教えが自分の言動に滲み出てくるように、変えていただきたいと願っています。 この記事は、これからも少しずつ書き換え、書き加えていこうと思います。もし興味とお時間がありましたら、また訪ねてみてください。 ありがとうございました。 またお会いできますようにと願います。 cororin