”命とは、人間が持っている時間のことです”
PORT HEDLAND AND DAMPIER ALAKALTO

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「今日もひとこと、ほめてみた。」のリブログ

私は、松本秀夫さんのブログ「今日もひとこと、ほめてみた。」のファンです。

彼のブログ「今日もひとこと、ほめてみた」はとっても素敵なブログで、読み終わると「そうだね、今日も一日 生きてみよう」そんな勇気をもらえます。

日常のありきたりで色あせたような景色のなかや、
見過ごしてしまうような小さな景色、そして否定の感情の中にある時でさえ、
物事を肯定的に捉える視点を与えてくれるブログです。
今日の松本さんのリブログは、「いのちの理由」というテーマの中の一つです。
命とは、人間が持っている時間のことです
皆さんも是非松本さんのブログを訪ねてみてください。

私は「命と死」についてよく考えます。
日本でのホスピスでの3年間の勤務も含めて看護師をしていた中で、多くの方の人生の終わりに関わらせていただきました。その後、外国人の夫と結婚しクリスチャンとなりました。半世紀という長くはない人生を通して、人間の生と死というものを考えるいくつかの視点を与えられました。

故日野原重明先生の中で生きていたイエス・キリスト

私が日野原先生のことを知ったのは、看護師をしていたから。
そして、
日野原先生がクリスチャンであり、クリスチャンであったということは、
自分自身もイエス・キリストを信じて生きていくと決めた一人のクリスチャンとして生きていくことを決めたことで、更に親近感が生まれました。

それぞれの人生の中で、目標にしたい人として、特定の友人、故人、偉人等を心に抱いている人は少なくないと思います。

日野原先生を、そんな一人として胸にいだいている人もいるでしょう。
医療者として、病を持つの人たちに寄り添い、
多くの講演を通して多くの人々を励まし、
そして105歳で、まさに命を全うされたかた。

105年の人生を通して、
「命とは、人間が持っている時間のことです」
「これからはだれかのために時間を使ってください」
このような提言をされた、尊敬に当たる方です。

日野原先生を人格者に育てた神イエス・キリスト

でも、
ここでちょっと考えてみてほしいのです。
何が、日野原先生をこのような人格者にしたのか、を。

日野原先生が、このような人格者になられた最大の理由は、彼が彼の人生のある時点で神イエス・キリストを「信じる」、「自分の生き方の目標とする」と決めた
たからに他なりません。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。新約聖書 コリント人への第二の手紙4章18節

人生には、多くの困難があります。
日野原先生とて同じことだったはず。
まして、105年という通常の人以上に長い人生の中では、
通常の人以上の困難に出会ってこられたはず。

その中で、
「これからはだれかのために時間を使ってください」と言えるブレない志を持ち続けることは、
奇跡に相当するようなことだと思うのです。

この奇跡を起こしたのは、
日野原先生が信じ続けた、見えない神イエス・キリストです。

旧約聖書 イザヤ書/ 64章 08節
されど主よ、
あなたはわれわれの父です。
われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。
われわれはみな、み手のわざです。

箴言/ 03章 11節
わが子よ、
主の懲らしめを軽んじてはならない、
その戒めをきらってはならない。

箴言/ 03章 12節
主は、
愛する者を、戒められるからである、
あたかも父がその愛する子を戒めるように。

コリントの信徒への手紙二/ 04章 05節−18節
5:わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、
主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。
わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。

6:「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、
イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

7:ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。
この並外れて偉大な力が神のものであって、
わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

8:わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、

9:虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

10:わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、
イエスの命がこの体に現れるために。

11:わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、
死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。

12:こうして、わたしたちの内には死が働き、
あなたがたの内には命が働いていることになります。

13:「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、
それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。

14:主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、
あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。

15:すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、
感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

16:だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、
わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

17:わたしたちの一時の軽い艱難は、
比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

18:わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

神の器として用いられる

陶器師がその手によって粘土をこねて
一番良い状態の粘土を作り出し
その手で心を込めて陶器を作り出すように、
また、
父がその愛する我が子を戒めつつ正しい方向へと導くように
神イエス・キリストはそのみ手で
日野原先生という人の人格を作り上げるために
多くの困難、戒めとなる人生経験を与えられたことでしょう。

しかし、
その多くの困難に打ちのめされることなく
日野原先生が105歳までその人生を
人のために使ってこれたのは、
神イエス・キリストの愛を
信じ頼ってきたからに違いないのです。

旧約聖書ヨシュア記/ 01章 05節
あなたが生きながらえる日の間、
あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。
わたしは、モーセと共にいたように、
あなたと共におるであろう。
わたしはあなたを見放すことも、
見捨てることもしない。

私達が日野原先生について偲ぶときに考える必要があることは、
日野原先生という尊い一人の人がいたという表面的な目に見える事実ではなく、
日野原先生を作り上げた
神イエス・キリストに目を向けることなのです。

「隣人を愛せよ」と教える神イエス・キリストを
主として生きてこられた日野原先生は、
一人でも多くの人を神イエス・キリストへと導くために
美しく、力強く用いられた神の器だったのです。

真のクリスチャンであるならば、
神の目的のために用いられる器となること、
それこそが、この与えられた生命を生きる真の目的と
理解しているはずです。

日野原先生というとても素敵な人を偲ぶとき、
ぜひ、日野原重明という一人の人間を愛し、戒め、導かれた
神イエス・キリストについて考えてみてください。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
またお会いできることを願っています。

コロリン

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