時空を超える命 / 出エジプト記11章9-10節 クレイより

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エジプトに起こされた10の災いと私達の関係

これは聖書に記されている、約3500年以上も昔、かの大国エジプトで起こされた神のしるし。

自分の命が存在する前の、それも日本とは遠く離れたエジプトで起こったことが、現代科学が発展した現代を生きる自分と関係があると考える日本人は、多くはないはず。

ところが、聖書の神を信じる人にとっては、関係は大あり。

不思議なものである。

信じる、信仰、信心という目には見えない心の在り方によって、3500年以上の昔という目には見えない時、自分が存在していなかった過去のことと今の自分とを関係づけることができるようになるのだから。

これができるのは、これまた私達の目には見えない「神の力」による。

そして、信仰、神の力の目には見えない存在によって、現在を生きるしかない自分という人間の存在が、過去と結び付けられたように、今の命を生きる自分と、この地上での自分の命が終わった後の自分が未来とも結び付けられる。

聖書の力によって。

聖書の神の力によって。

神が人間に与えられた「信仰」という力によってのみ、人間は時空さえ超えることができる。

2022年3月19日土 のClay クレイより

https://message-station.net/clay/daily/2022/03/19/3047/

用いてください。
Use me Lord.

出エジプト記11:9 〜 10(聖書箇所)

9 【主】はモーセに仰せられた。「パロはあなたがたの言うことを聞き入れないであろう。それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」

10 モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行った。しかし【主】はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。

9 つの災いのまとめ(中川牧師の解説)

かたくなな心

9 〜10 節は、これまでにエジプトを襲った9 つの災いのまとめの記事である。「【主】はモーセに仰せられた」とあるが、これは過去完了形に訳すのがよい。つまり、「【主】はモーセに語っておられた」ということである(出7:22 参照)。【主】がモーセにあらかじめ語っておられた内容は、以下のようなことである。(1)パロはモーセの要求にも警告にも耳をかたむけないであろう。このことばの通りに、パロは最後まで心を頑なにしたままであった(出4:21 参照)。(2)パロの心が頑なになった結果、【主】がなさる不思議が9 回にわたってエジプトの地で行われた。「それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである」とあるとおりである。そして今、10 番目の災いがエジプトに下ろうとしている。(3)「不思議」と訳された言葉は、ヘブル語で「モフェット」である。これは、不思議、奇跡、しるし、などと訳される。「しるし」というのは、【主】の御業であることを証明する奇跡という意味である。

私たちへの教訓

「モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行った」(10 節)。(1)モーセは、パロが心を頑なにしたために多くの教訓を学んだ。もし最初から事態が順調に進展していたなら、彼は傲慢ごうまんになっていたことであろう。しかし、思いどおりにならなかったので、彼は多くの教訓を学ぶことができた。(2)その教訓の1つが、「神に従うことには犠牲が伴う」ということである。途中で任務を放棄しそうになることもあったが、モーセは最後までやりげた。主イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」(マタ16:24 〜25)と言われた。私たちも、このことばを真剣に受け止めよう。(3)「しかし【主】はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった」(10節)。パロが心を頑なにしたので、【主】は彼の心をより頑なにされた。その意味は、【主】はパロが頑なになることを許されたということである。
私たちの人生にも不可解なことは起こる。しかし、神の許しなしに起こっていることは何もない。【主】の主権を認め、【主】を恐れることを学ぼう。【主】は、私たちの人生を最善へと導かれるお方である。

きょうの祈り

天の父よ。パロが心をかたくなにしたのは、私にとっては不思議なことです。その背後にあなたの主権があったことを認めます。きょうも【主】を恐れることを学ぶことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

人間の愚かさを知り抜く 神の知恵

(1)モーセは、パロが心を頑なにしたために多くの教訓を学んだ。もし最初から事態が順調に進展していたなら、彼は傲慢ごうまんになっていたことであろう。しかし、思いどおりにならなかったので、彼は多くの教訓を学ぶことができた。

中川牧師のこの解説から、神の御力、過去現在未来をすべてご存知の上ですべてを導かれる神の御力を改めて教えられた。

イスラエルの民をエジプトから導き出す為に、嫌がるモーセを用いたにも関わらず、神のみ力を持ってなら瞬時にでも出来たであろう事を、わざわざ10回も繰り返した神。

合理的に物事を進めたいと考える私がモーセだったとしたら、「何故早くに、さっさと事を進めないのか?」と神を大きく疑い離れていってしまっただろうと想像する。神の言葉に従えるとしてもせいぜい2ー3回程度が私の限界なのでは、とも思う。

しかし、10回もの神の言葉に全てその通りに従ったモーセの忠誠心に、私は大きなため息しか出ない。

そして、災いが10回も繰り返されたことが、イスラエル、エジプトの民、モーセ自身そして現代の私にとっても大いに意味があることとなっていることに、神の御力の偉大さを感じずにはいられない。

そして、10回も繰り返されたこの神の印によって、「それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである」と神が言う言葉は、3500年以上も先に生きる私にも向けられているのだ。

一回や二回の神の印でイスラエルがエジプト脱出ができたなら、解説にあるようにあたかもモーセという一人の偉大な人間の力でそれを行ったかのように思い、思われ傲慢になるだろうし、それによって神の御力を自分の中深くに認識することもできなかっただろう。

神は、時が経ても変わることのない人間の愚かさを十二分に承知の上で、イスラエルの民、エジプトの民そして現代と未来の神の民が聖書を通してよりよく神についてを学ぶことができる為にエジプトに10の災いを下された。

その事によって、3500年後に生きている私が今、聖書を通して聖書の神のみ力を理解することがでる。

更には、これからの未来において聖書の神イエス・キリストが救世主であることを信じるようになる多くの人たちもまた、この10の災の聖句を通して神の御力の偉大さを知ることになるのだろう。

聖書の神の力は、神を信じる人の命に時空を超えさせる。

コロリン

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