幸せになる鍵は「人並み」を「自分並み」に変えること

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以下のリンクは、くりんさんという方の書いたアメーバブログ。
いくつかの精神的障害を抱えるなかで、彼だからこその視点で考えて、彼なりに見つけた彼の幸福論とでも言えるかもしれない。

今日のこの私の投稿は、くりんさんの投稿に出会って生まれたもの。ぜひ彼のこのリンクを訪ねてください。

https://ameblo.jp/suicider94/entry-12744743422.html

人並み、常識という境界線

くりんさんの「障害者であるがゆえに(幸せになれた)」という視点について私なりに考えたら、世間で俗にいう「人並み」「常識」という言葉が一つの境界線になっているような気がした。

でもその人並みとか常識はそのどちらも、人間社会という不可視なものに勝手に作り出されている文字によらないものでしかない。

その文字にも依らないものにも関わらず、多くの人が知らずしらずのうちに縛られているように感じる。

「人並み」という虚像

人間社会では、有限で可視化できるものが中心になってこの「人並み境界線」が引かれるから、自己中心性と欲を持った人間は もっともっと more more!を追い求め、「足るを知らない人間の人並み境界線」の位置は上昇しその幅は狭まるばかり。

そして、自分の境界線の幅を狭めその設置位置を高くすることによって一番苦しんでいるのが自分であることには気づきにくい。 外を見ることにばかり使われてきた私達の目は、他人の有り様ばっかりに向けられて、目には見えていない、見せられていない、隠している一人ひとりの内面に考えを及ばすことを忘れている。

高級レストランでステーキを目の前にして優雅にワイングラスを傾けている人達が、その心も本当に幸せであるのか? 

ブランド物のバックを持っている人のその自慢げな笑顔、その裏にも本当の笑顔があるのか? 

学校でいつも多くの友人に囲まれているその同級生が、家でも同じ笑顔ができているのか? 

社内業績トップのその人の家庭は、果たして夫婦円満なのか? 

ブログで家族の幸せを投稿している人の日常生活は本当にブログに書かれていることと同じような幸せなのか?

 親に十分な収入があって、欲しいものはほとんど全てを手にする子供の、その心も本当に幸せなのか? 

不労収入が十分にあるから人のために働く必要がなく、自分のやりたいこと欲しい物、食べたいものだけに時間を費やす人たちの、その心は本当に幸せなのか?


人が見せる幸せ、私達が目を向ける人の幸せの光景を疑うことを勧めるわけではないが、人の幸せは、点ではなくて線であると思う。

 私達が目を向ける、もしくは見せられている他人の幸せの光景は、その人の人生という線を作るのほんの一点でしかない。一日という人生を造り出す点が全部で10個あるとしたら、私達が見ている、見せられているその点は10分の1でしかない。 

他の10分の9の点々は、その一点を作り出すためにどんな状況なのか私達にはわからないのだ。 もしかしたらその10分の9の点々は、あなたが勝手に想像しているように幸せ溢れているのかもしれないし、全くそうではないかもしれない。殆どの部分は私達には分かりようもない不明な世界なのだ。

 だから、そんな目には見えていない不明な部分までも自分の中で勝手に創り上げてひっくるめて情報として勝手に取り入れて、「人並み境界線」を自分の中に造ることは、とてつもない不確実性が潜んでいることになる。

そう考えてみると「人並み境界線」というものは、とても非現実的なものということができないだろうか?

そして、こうやって自分が勝手に作り上げた「人並み境界線」を基準にして、人並み以下にいる自分を認識して気持ちを落として日々過ごしているとしたら、それは全くもって馬鹿げていると言える境地ではないか? 

では、どうやれば「人並み境界線」から脱することができるのか?。

人並み境界線を「自分並み境界線」に変える事が幸せになる鍵

どうやれば「人並み境界線」から脱することができるのか? 
それは人並み境界線を「自分並み境界線」に変えるということではないか。

実は「人並み境界線」は人それぞれに違いがある。 

ある人の「人並み境界線」はその線の幅が狭い故に、その人の「人並み範囲」から外れる人は多くなり、ある人の「人並み境界線」は幅のある帯のようなものでその人の人並み許容範囲は広い。

そして人は時に何かの切っ掛けによって、 自分は社会と同じ「人並み境界線」を共有していたと信じていたものは、実は自分自身の考え方に由来していたことに気づく。

このことが「自分並み境界線」を作り出すきっかけとなる。

くりんさんの場合はまさに、人並み境界線から脱して自分並み境界線を見出した良い例だと思う。

彼のきっかけは自分を障害者という立場において自分のことを見つめ直したときに、自分は世間の人並み境界線には至っていないという謙虚な視点を見出したことであり、そこから彼自身が自分並み境界線を造り出したということと言える。

もちろん忘れてはいけないのは、彼自身が実直に自らの今までの自分の有りようを客観的に捉えるという努力があった事実。これは決して生優しいことではなかったはず。

私達は彼のように「人並み」でなく「自分並み境界線」を持つ必要性を見いだせる。

「自分並み境界線」は自分自身で作り出す必要があり、人生の節目節目において自分で柔軟に変化させることができる。 これがまさに、今の世の中で耳タコのように聞かれる「自分軸で生きる」とか「自分の幸せは自分が決める」 ということなのではないか?

これに気づいて、無事に「自分並み境界線」を作った時、誰よりも私達自身が生きやすくなる。そして多分、他人をも受け入れ安くなるのではないかと思う。

自分並み境界線の作り方ー 他人との比較抜き

ではどうやれば、自分並み境界線を作り上げることができるのか?

そのためには何より、自分が「幸せ感」をどういうときに感じるのかをじっくりと観察して、できればスマホにでも記録してみるとより確実。


自分がどんなときに 純粋にホッと安心しているのか? 

どんなときに純粋に嬉しいと感じているのか?

どんなときに純粋に「あーよかったぁ」と感じているのか?

誰といるときに純粋に嬉しい!と感じているのか?

誰が何をしてくれたとき?
誰が何を言ってくれたときに?
どんな景色が見えているときに
どんな景色の中にいるときに?
どんな音を聞いているとき? 
何にウキウキする?
何にヤッタァーと感じる?   などなど

純粋に、としつこくと書いたのは、「自分が嬉しいと思う感覚」の中に在るときに、人との比較の感情が入っていないことを意味する。
今求めているのは、自分並みであって、人との比較をしていないことが大切だから。

幸せは感じたモン勝ち!

「自分が嬉しいと思う感覚」にもっと敏感になること、 
自分の幸せ感覚を作り出す「あなたの感覚に」もっと意識的になること。

「自分が嬉しいと思う感覚」を卑下しないこと、
「自分が嬉しいと思う感覚」には人との比較を入れないで、純粋に自分の感覚をあなた自身が両手でしっかりと受け取ってあげること。

幸せを貴方の心に醸し出す出来事が何であろうと、たとえそれがトリュフでなくて、農家の人が丹念に育ててくれた本当のトマト臭いがするたった一つのトマトあってもいい。

幸せは感じたモン勝ち!

私が幸せを感じれるならそれが一番でそれで十分。
たとえ他の誰かがなんと言おうと、なんと思っても、幸せは感じたモン勝ち!

幸せを貴方の心に醸し出す出来事が何であろうと、たとえそれが高価なトリュフでなくて、たった一つのトマトであってもいいい。

価格の高い安いなんて関係ない。 

手軽に手に入れることができる物や事で幸せを感じることができるならそれが一番。

だって、手軽にたくさんの幸せの点がい~っぱいできるんだから。
そしてその点々がつながればそれが幸せな人生になるんだから。

未来の幸せで過去の不幸せは帳消しにはできない

10年先に掲げた大きな目標=幸せの一点を手に入れるために過ごすそれまでの10年が幸せでなかったなら、10年先につかんだ幸せがいくら大きくても、過ぎ去った10年の不幸せを10年後につかんだ幸せで埋めることはできない。

私達は、過去を未来で補うことはできない。

だから、幸せは今この一瞬にしかない。

この一瞬一瞬に、あなたの幸せつまりあなたが「これで良し」と思える時間の過ごし方をする以外に、あなたの人生を幸せにできるものはない。

あなたの幸せを「今という時間の中で醸し出してくれるもの」を追い求めること。

それは、ささやかでいいけれどあなたを喜ばせてくれる景色、人、事柄、言葉、匂いや味、趣味や人間関係を見つけるために、自分の幸せ感覚に、人との比較抜きにもっと敏感になること。

心に留めるべきは、自分の幸せ感情であって、不幸感情は無視するに限る。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

よろしければ、以下も訪ねてみてください。

幸せをつかむための感性

cororin

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