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こんにちは。
「じっくりと神イエスキリストについて」の第二弾です。第一弾はこちら
今日は、不信仰クリスチャン奮闘記の最終回。
神様の訓練第二段階を受けながら、結婚生活を続けてこれた過程について書きます。
不信仰クリスチャン奮闘記 1&2 も読んでいただけると、
分かりやすいと思います。
では、BGM を ON にして、
GOD WILL MAKE A WAY
https://youtu.be/RsMAXhc0QTs
Let's begin!
聖書について学びたい!
不信仰クリスチャンであった私の信仰は、結婚生活に追い詰められていた時以下の聖句によって覚醒させられた。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたし(イエス)は心優しくへりくだっているから、 あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、 わたしの荷は軽いからです。 (新約聖書マタイの福音書11章28〜30節) 聖句解説リンク:聖書入門.com
そして当時4歳だった息子の以下の言葉、
Mummy, NEVER GIVE UP !によって励まされたのだったが、、、。
詳細は「不信仰クリスチャン奮闘記 2/3 」をご覧ください
この
マミー、ネヴァーギブアップ! 以降、私に
聖書について学びたいという気持ちが湧いてきた。
けれど、私がいたところはニュージーランド。
英語の説教をしっかりと理解できるほどの英語力は私にはなかった。
日本語の旧約聖書も新約聖書も持ってはいたが、それを読むだけでは分かりきれないことばかり。
知りたいという欲求があるのに、知るための手段が見つからない時間が続いた。
出産後、三男の育児という現実問題にまたもや😨身も心も奪われ、聖書について学びたいという欲求は、風前の灯し火の様になっていた。
それが、
クリスマスの時期、ある日本人家族の家にクリスマスパーティーに誘われていった時だった。
なんと!
日本で30年間も宣教師として働かれたニュージーランドの女性宣教師が、日本語で一緒に聖書について学びませんか❓と呼びかけてくれた。
本当に私はこの時、そう思った。
2,007年から、ニュージーランドにいながらにして、週一で日本語で聖書が学べる機会が与えられた。ニュージーランドという異国にいながら、私の言葉で、学びたいことが学べるということの有難さ。
特に「神イエスキリストの教えに従って生きていこう」という同一の世界観について共に学び、話し合い、支えあうことができる友が与えられたということは、その後の私にとっては、本当に神からの大きな恵みだった。
もし、私にこの交わりが与えられていなかったとしたら私はやっぱり、一人日本に帰ってしまっていたかもしれないし、
そうしたらやっぱり今こうして家族と一緒にオーストラリアにいることはなかっただろうと思える。
2007年以降から、初めの8年間を含む今日までの20年以上の時間は私にとっては真に、人生を通して「神イエスキリスト」という方を発見、知り、体験、するために、設定された時間と思える。
信仰強化の為の訓練、第二段階😨
で、過酷な8年を乗り越えた後夫婦関係はどうなったか?というと、依然、山あり谷あり😉。
これも当たり前。
山の高さは前よりも低くなってきていると感じるし、谷の深さも時に浅くなってきたようにも感じる。
こう言えるまでに、実は
オーストラリア一周の旅の途中で、今までの20年間で
と思えるような嵐を経験した。
いよいよ結婚して一緒にやってきた20年以上の時が水の泡に化すか!?と思えるような試練だった。
キャラバニング中だったので、家族は四六時中一緒だった。子供の前では、氷の夫婦、両親の仮面をかぶり、感情のない、必要最低限の日常的会話を交わすだけの無味乾燥な時間がしばらく続いた。
こんな無味乾燥な時間に耐え切れず、話し合いの誘いをかけてくれたのは、夫だった。
涙鼻水の混じった話し合いでは、お互いが密かに
美しい断崖絶壁の絶景を前に(ここから飛び降りたら、、。)と考えていた事まで話すことができた。
そして、結婚21年目の仕切り直しをした。
この話し合いの前の荒んだ時間を過ごす中で私はこんな思いを抱いていた。
「20年も一緒に過ごしてきたのに!?
なーんで、こんなにもあなたは、私の事が分からないの⁉
20年という時間の中で、あなたは私の何を見てきたの⁉
私は、物事をそんな風に見る人間じゃないよ!
20年も一緒にいてさえも、あなたは私の事をこんなにも分かっていないなんて!
この先どれだけ長く一緒にいても、
もう分かり合えることなんか無理!
一緒にいるだけ無駄ーーーー!」
と思って絶望しかけていた。
なんて独りよがり、自分勝手な言い方だろう、今の自分ならそう言える。
「じゃ、あなたは夫の事を一体どれくらい知っているというの?」
「夫は、あなたに我慢していないと、言える?」
この二つの質問をされたら、私には口から吐き出す言葉は、なかったはず。😌
こんな私に、聖書の言葉が送り込まれた。そう神様から。
しかし、天地創造の初めから、 『神は人を男と女とに造られた。 それゆえに、 人はその父母を離れ、 ふたりの者は一体となるべきである』。 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。 だから、 神が合わせられたものを、 人は離してはならない。 新約聖書 マルコによる福音書 10章6-9節
夫から離れることしか頭になかった時に、私の頭に浮かんだ聖句がこれだった。
「神様は聖書を通して、
「神が合わせられたものを、人は離してはならない」
と言っている。
だから、わたしは、夫から離れるべきではない」
離れるべきではないんだ、きっと。
別れちゃ、ダメなんじゃん!!
別れられないんじゃん!!
😡😨😰😖😟🥺😐
神様が別れるなと聖書で言っているからという理由以外に、もちろん家族関係に及ぼすであろう影響についても自分の中で考えた。
そして、何一つとして「良い」と思える理由は見つからなかった。
子供たちは勿論、夫側と私側の家族も、誰も喜ぶはずはない。
きっとみんな驚き、戸惑う。
なによりも子供たちは大きな悲しみの傷を受けるだろう。
こんな風に、いろいろ考えている時に、一つの新しい視点が与えられた。
「神様が結び合わせた私達なら、神様が私たちを助け導いてくれるはず。
もしかしたら神様は、今なら、別れずともやり直しができるから、結婚後20年の今ならやり直しができるから、こうして仕切り直しをする機会を私達に与えられたのかもしれない。
結婚30年後ではなく、結婚後20年の今ならまだ仕切り直しができるから、と。」
はぁ~?と思う人が多いと思うがキリストイエスに従って生きていこうと決めた私の心は、こう思った時に、決まった。
見つめる方向を変えることを。
別れる方を見るのではなく、別れないで一緒に夫婦をやっていく方向を見つめていこうと。
神様の助けにすがることを決めた。
不思議なのだけれど、この時の自分の心の変化は今にしても割とはっきりと思い出せる。そして、思い出す度に、あの時お互いが、イエス様を信じると決めた人間でなかったら、私たちの結婚は終わりになっていたな、と思う。😅
時事刻々 2019年末
2018年の初めに、こんなことがあってからほぼ2年が経とうとしている。今も、夫と息子三人と小さな小さな借家を借りて生活し、夜はキャラバンで寝る生活をしている。
別れずに、ここまで来れた。
お互い、できれば2年前のあのどん底の気まずい時間は過ごしたくない。今、私は、夫が変わってきていることに気づいているし、多分夫も、私の態度が変わってきていることに気付いている、と思いたい😅
私は、夫にその優しーい笑顔(作り笑顔っぽい)でじっと見つめられるのが好きではない。
笑顔と平和な心情を私に強要されているみたいな気になるから。
以前は気付いても気づかないふりをして、見つめて笑顔を返すのを避けていた。
でもいまは、チラッと目を見て、ニコッとそそくさに返す。これでも、一つの私の頑張り。
夫に対しても子供に対しても、否定的なことを言うのは、肯定的に褒められることを先に見つけて言ってから、付け足し程度にさり気なく私の要望をいう。
昔の私は逆だった。
否定的若しくは自分の要望を文句を言うように先に切り出しては家族を不快にしていた。だからこれも私の一つのチャレンジ。
夫は、たとえヘッドフォンをしてiPad を聴いていても、私が話しかけた気配がするとヘッドフォンを外して耳を傾けてくれる様になった。
洗濯物にも以前より関心を持って干したり取り込んだりしてくれる様になった。
小さな小さな気遣いと協力の変化が、あの時=Worst 最悪の時から今日までの約2年の道のりを共に歩くことを可能にしてきたと感じる。
まだまだお互い、相手の期待を物差しにすれば、半分以上も変わっていないくらいかもしれないけれど、一緒にいたからこそ、今までの自分の殻から抜け出す機会となった。
私の気持ちを、私を変えてくださいと、神に祈りつつ今日まで来た。
来年2020年もこうして共に歩んでいけたらと願う。
人間の努力なんてー私の努力なんてたかが知れてる。
イエス様にすがって、2020年も生きていくことにしか、成功の可能性はない。
神様は、人間以上の存在だから。
神様は、人間の想像をはるかに超えたことがおできになる方だから。
人生は一難去ってもまた一難。
みんな一緒!ね😉
でも悪魔からの難 と受け取るのと、神様からの愛のムチ として難を受け取るのとでは、対する心の持ち方が大きく違ってくる。
信仰の導き手であり、 またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、 走ろうではないか。 彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、 恥をもいとわないで十字架を忍び、 神の御座の右に座するに至ったのである。 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、 罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、 思いみるべきである。 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、 まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。 [ 新約聖書ヘブル人への手紙 12:2-4 ] また子たちに対するように、 あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、 「わたしの子よ、 主の訓練を軽んじてはいけない。 主に責められるとき、弱り果ててはならない。 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、 むち打たれるのである」。 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。 神はあなたがたを、 子として取り扱っておられるのである。 いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、 それこそ、 あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。 [新約聖書 ヘブル人への手紙 12章5-8節]
こまで読んでいただき、ありがとうございました。 2020年が皆様にとって神様をより多く認め、感謝できるときとなります様にと祈ります。是非また、お越しください。
cororin
追記;夫の名誉のために記しておきますが、
彼は経験なクリスチャンです。私が神イエスキリストから離れないように
日々気を使い、守ってくれている人です。
けれど、お互いがお互いに関して興味を持ち、相手を知り理解しようとする努力なくしては人間関係はうまくいきません。よね。